もう、三十年くらいも前のことではないかと思いますが、雑誌「文芸春秋」の随筆欄にある方が「愛情利息論」という文章をお書きになっていたのが、しきりに、思い出されるこの頃です。
夫が愛してくれないとか、友だちが冷たいとか、いろいろ泣きごとを聞くことが多いが、嘆いているばかりでは、ますますみじめになるばかりではないか。汲み上げポンプの水がでないとき、水が出ないと嘆いていないで、呼び水を入れる、そして汲み上げの努力をすれば、入れた水も一緒になって戻ってくる。愛情が欲しければ、こちらから、愛情の呼び水を入れ、汲み上げ、奉仕の努力をする。水が噴き出るまで、その努力を続ける…というような内容の文章だったと記憶しています。
年をとって、これを思い出すのは、老人の生き方の上にも、これは大切なことを教えてくださっていると思うのです。
年をとるということは、さみしいことです。社会的役割を失います。存在への関心も失っていきます。視力を失い、聴力を失い、脚力を失い、体力を失います。しかも、それが速度を加えていきます。しかし、それがさびしいと嘆いておれば、ますます、孤独を深めるばかりです。
まわりに、愛情を注ぎましょう。注いでも注いでも、なくなるものではありません。それが、心というものの不思議なところです。(中略)
孫が登校するのを見送りに出ていると、振り返っては、何べんも、手を振ってくれます。心は、返ってくるものだと思われてきます。「老」もいいものだなとさえ、思われてきます。
出典:東井(とうい)義雄(よしお)[1]「お米のいのち心から拝んでいただく」探究社・法藏館(令和5年8月)29頁—31頁
[1] 1912年、兵庫県豊岡市但東町の真宗寺院に生まれた。1932年に兵庫県姫路師範学校を卒業して40年間、県下の小・中学校に勤務。ぺスタロッチー賞(広島大学)、平和文化賞(神戸新聞)、教育功労賞(文部省)など、数々の教育関係の賞を受賞。篤信の念仏者としても知られている。1991年4月18日に逝去。豊岡市但東町(元町役場に隣接)に東井義雄記念館がある。