「目」があって見ることができることも、「耳」があって聞くことができることも、「呼吸」や「心臓」が昼夜無休ではたらき続けていることも、「手」や「足」が、それぞれ自由にはたらいてくれることも、食べたものが「血」となり「肉」になり「骨」になり、はたらきの「エネルギー」になってはたらいてくれることも、みんなみんな、ただごとでない、不思議きわまることであったのです。「生きている」とばかり思っていた私が「生かされている」のです。頭の上がらぬ思いでした。
いつも、バカにしながら読んでいた『正信偈』の「凡聖逆謗斉回入(ぼんしょうぎゃくほうさいえにゅう) 如(にょ)衆(しゅう)水(し)入海(にゅうかい)一味(いちみ)」(凡・聖・逆・謗、斉(ひと)しく回入すること、衆水の海に入って、一味なるが如し)という言葉が思い出されてきました。(中略)
ちょうど、どんな荒れ狂う川の水も、汚れた川の水も、摂取される世界があったのです。そしてその世界のどまん中に、私は生かされていたのです。逆いているときも、謗(そし)っているときも「み手のまんなか」であったのです。
「仏さま」は、「私」の「いのちの根源」に、はたらきつづけていてくださっていたのです。
出典:東井(とうい)義雄(よしお)「こころの味を大切に」探究社・法藏館(令和7年8月)19頁—21頁
