あまり苦しまないように、あまり、まわりの者の迷惑にならぬような死に方、それはもちろん望むところです。が、そんな死に方を選びとる力のある私ではなかったのです。七転八倒、のたうちまわって死なねばならぬかもしれない私なのです。でも、のたうちまわって死んでも、「死にともない」「死にともない」と、わめきながら死んでも、まちがいなく、摂め取られる世界が、ちゃんと、既に成就(完成)されていたのです。(中略)
ここで、気づかせてもらってみましたら、私の父は、「人間に生まれさせてもらった以上、ここまで来なかったら意味はないのだぞ」と、私を臨終の座に呼びよせてくれたのではなくて、いつの間にか、自分の力を頼む私に、「そんなもので、人生の一大事をのりこえることはできるものではないぞ」と教え、「生きても死んでもみ手のまんなか」という世界に目覚めさせるために、私を呼び寄せ、身をもって、その広大(こうだい)無碍(むげ)の世界を、私に伝えようとしてくれたのだと、気付かせていただいたのでした。 (中略)
この安らぎの世界に目覚めさせてくれたのは父です。父はやっぱり、まちがいなく、如来さまのお使いだったにちがいありません。
出典:東井(とうい)義雄(よしお)「お米のいのち心から拝んでいただく」探究社・法藏館(令和5年8月)21頁—23頁